正論ってあって。例えば約束を守るとか泣いている女の子を追いかけるだとか、主人公ならそうするべき当然の流れってある。普通そうするべき、そうするのが正しいって流れが。
でもそういうことは破れば破るほど変な人になれる。人と違う人になれる。
好きな人に好きって言わないとか、ぼくらはその辺の恋人たちみたいにベタベタしないってかっこつけたりとか、頑張ってないふりをするとか、まあ色々。
でもそうもいかないときがある
何か決断を迫られた時って、そういういつもの建前的な自分と本来そうするべきだった自分とが争うことになる。
どっかの哲学者が自分の考えが間違っていると途中で気づいても、間違った自分を貫かなければならないと言っていた。
孔子は「過ちて改めざる、是を過ちという」と言ったらしい。
多分世間一般的な孔子の選択は最適な選択だと思う。
孔子は「過ちて改めざる、是を過ちという」と言ったらしい。
多分世間一般的な孔子の選択は最適な選択だと思う。
でも最適な選択がベストというわけではない。それでだれかが傷つくかもしれないし、そういうことを考えていること自体自分でも相手でもないだれかの目を気にしているみたいで嫌だ。
どちらにしろそういうことを考えるにはエネルギーがいる。
だからそういうことは考えないようにしてきた。逃げていた。
2年たった。
そろそろ清算するべきだと、そういう時期なのだと自分から気づけなかった。
そのそっけなさが、今までそっけなく感じていなかったのだけなのかどうかは知らないけどとても悲しく感じるんです。
あぁ、またごまかしておけばよかったなと。
たまたまお酒を飲んでくらくらしていたのが幸か不幸か。
いや多分それでよかった。
なまじ今日暇だったから色々考えたけど、考えれば考えるほど正論の方に引っ張られる。もともと重心はそこにあるから当然と言えば当然。
どの形がベストなのか。
あの人がどうしたいのか
それを操作するべきか
ぼくはどうしたいのか
それを知るべきか
何を気にしているのか
何が問題なのか
でもそういうことを考える前に、好きだって、言えるひとになりたかったな。
言ったところで少なくとも今のぼくには薄っぺらく感じてしまうだろうけれど
それが言えないから、それが言えなかったことが問題なんだ。
きっとそれはあの人も同じはず
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